本当の理由とは別に、建前を設けるのが常になったタイミングは自覚しています。
そこで疑問に思うのは、どのようにして「本音」はかき消されていって、もしくは、どこにしまってあるんだろう🤔と。
好きなものと人だけに囲まれて、何事にも感謝できて、無垢な気持ち?と無知を曝け出し、情熱だけで生きていた時は豊かだっただろうな、思います☺︎
でもね!また0から、やり直せそうです。☺︎
自己完結しないで、拾いに行ったボールで他人とキャッチボールできることの有り難さを、この数日間でいろんな人から教えてもらいました。
興味のない人間をゴミのように扱うとも言われたことがあるくらいですが、
人との縁を切るのってすごく簡単だったなと思います。
簡単で楽なことしかしてこなかったので、
この1年間、切らない選択を取り続けてみて、
それは私にとっては、我慢の要ることで、
(我慢、我慢、我慢・・・と一生唱えないとできないレベル)
こんなに複数のものに「鬱陶しい」と感じることは、なかなか珍しかったのですが、
この鬱陶しさから、何が学べるか、をずっと考えていたら
ほとんどが、鬱陶しくなくなりました。笑
「学ぶことなんてあるわけないでしょう!!!・・・けど何かあるんだろうなぁ」
と、気長に待ってみて良かったなぁと。
熱りが冷めてくると、「鬱陶しい」も美しいのかなぁ、なんて思うこともありますが、
取り憑かれてる時は、とてもそんな風には思えません。
美しくなくても、いいです。
表面上の笑みより、ぐしゃぐしゃになった泣き顔のほうがいいです。
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