お料理は、愛情表現。

今月は、(ちょっとした)病というとんでもないマイナスから始まりましたが、

ぐんっと陽転して弥生を終えようとしています。🌼

一方、離れて暮らす母親も病に襲われ、しばらく療養中です。。。😢

 

親子揃って、具合が悪くなろうが、人に頼ろうとしない、頑固なところがあるみたいです。

母は、誰よりも私のことを思っているし、私には母が一番大きな存在です。

弟は、一番大切な存在です。

 

母は、自分で考えて行動して、一人で切り開いてやっていくようなタイプではありません。

結婚する前のことは知りませんが、専業で主婦をやってくれていたので、ずっと子育てと家事、最近はパートでお小遣い稼ぎをせっせとしています。

現状、夫婦生活を送っているんだったら、(パパに支えてもらえばいいのに・・・)と思ってしまいます。

いつもなら、(いつもというのは突発的な発熱とか、ハチに刺されたとか)もっと看病をしてくれているのに。

なんで今回は、こんなに長引いて、しんどそうなのに、協力的でないのか?と疑問が沸いてしかたなくて、

かくいう私も、ママの訴えを日々スルーしていたことに気づき、

自分の病人週間をも思い出すと、継続的に体調不良でいると、最初の頃の「大丈夫?」という心配の温度が変化をしていきます。

基本的には快調に向かっていくものだと考えられるし、

ちょっと体調不良であることがデフォルト化されてしまうのだと感じました。

 

私が、自立した強い人間になりたいと思う根源は、概ね家庭環境にあります。

大黒柱である父のことは本当に尊敬しているし、家族を守ってきてくれた母のことも尊敬しています。

しかし、お互いを気遣ったり、支え合ったり、理解したり、日々前進できることはあるのではなかろうか、とも思います。

小5くらいの時、結婚式の日と私の誕生日が近いことを知った時は、衝撃と納得でした。

私の命が先で、結婚が後。

パパとママは当時、ちゃんと考えて行動とってたのかな・・・。と小5くらいの時に感じました。

 

パパだけが働いて、ママは家のことをやる。

そうすると、ママは本当に自分のやりたいことをやれているのかと気になったし、

金銭的には常にパパに頼らないといけなかった為、この構図こそ私の反骨精神を育んでくれました。

パパの年収を絶対に超えることが、最初の目標で、

ママが欲しいものを買ってあげれるようになって、

でも、気づいたのは、まだまだパパを超えることはできないな、ということ。

いざ、という時に出番があって、緊急出動するのは、いつもパパだから。

緊急連絡先の欄に書かれるのも、必ずパパの名前と電話番号で、

呼んだらいつでもどこでも来るって分かってるから、安心している自分がいます。

パパは、パパでしかないみたいです。

交わす言葉の数や、過ごす時間の量は決して多くはないのに、希薄だと感じないので、そういうものは関係ないことが私の中で証明されています。

 

誰よりも多くの時間を過ごしたのは、もちろんママです。

小さい頃から、ママのご飯が楽しみでした。

でも、ママはご飯が作るのを楽しんでいるわけではないことを、なんとなく気づいていました。

だから、幼稚園の時から、母の日のお絵描きとか、手紙の内容は「いつもごはんを作ってくれてありがとう」でした。

いつも食べることしか考えてなかっただけかもしれないけど・・・

作るのが嫌だからという理由で、惣菜を買ったり、土日は外食が多かったりは、ちょっとイヤでした。

(わざわざお金を払って、楽しみを減らし、不健康になろうとするのかが理解できないという理由でイヤでした。)

どうやらママは、食べることがそんなに好きではないらしいです。ご飯をよく残すし・・・

(自称)料理嫌いなママが、台所に立って、一心に調理をしている姿は、本当にひたむきで、愛情の演出だと思うのですが。

 

大学生の時も、社会人になっても、毎日「ご飯いる?」って聞いてくれて、何が食べたい?って聞いてくれるのが当たり前で、まったく感謝してなかった時もありました。

大学の食堂は、お肉ばかりのメニューで慣れないのに、

家から大学が遠すぎて、それまで毎日18時には夜ご飯を終えていた生活が変化し、遅くなったことも慣れなくて、

”理想的な食事を作ってくれないママ”を悪者にしていたので、

常に「要らない」と返事をしていました。

オムライス(だけ)なら要らない、とか。。。

「何つくる予定? 和食におかずとサラダがいいな。」とか細かくお願いしても、大体そのように作ってくれました。

 

ただ、リクエストしないと、野菜やお魚やお米中心にならなくて、

私が偏食なのか、いつも家族と食べているものが違いました。笑

もともと分裂気味だった食卓事情を、助長させたと思っています・・・

 

一つ、身を持って経験したこと

調子が良くない時こそ、お食事に気をつけてほしいなぁと思って、ご飯を作って持って行ってきました。

 

自分が感じたことを、行動に移すのは、幾分押し付けがましい気もしますが、

家族なので、あまりそういうこともなく。

気持ちを伝える言葉がなくても、「ママが元気になったらいいな」という想いは、お料理に変えて表現できたかなぁと思っています。

 

なんか、「心配だから、明日いくね!」とか言うのは恥ずかしいし、

「ご飯作ったから一緒に食べよう」って言うのも恥ずかしくて、

予告なく、お昼頃にお弁当を持っていくということをしました。

なんなら、あと5分で着くという時に「今帰ってるんだけど、アイスある?😏」と弟に連絡を入れました。

 

おにぎりが大きすぎたらしくて、笑われましたが、

「あやの基準だと小さすぎると思ったし、小さいと貧相かなって。まぁ気持ちの大きさだよ」

と言ったら伝わっててずっと笑ってました。

 

調理は苦手ですが、料理が出来上がるまでのそのプロセスも、食べるのも、楽しくて幸せです。

匂いの記憶は強烈で、私に包丁の使い方を教えてくれたのはおばぁちゃんだったような記憶が蘇ってきました。
おばぁちゃんと、料理以外にも、いろんな体験を一緒にしたような記憶がうっすら・・・

食事の時間は、一人でも十分幸せだし、むしろ一人のほうが💭幸せだなぁ💭って、そこにだけ集中できるからいいのかもしれません。

家族と食卓を囲む時間は、その時はなんとも思わないんだけど、

家に帰ってくると、ふと思い出されて、

あの時みんな笑ってて、楽しかったなぁ。って、いつも思います。

今日は、一瞬、家族全員揃って嬉しかったです。

いつも賑やかに笑って平和に過ごせると、いいんだけど〜。

 

食べることと、心身ともに健康であることが並行していけるような生活が望ましく、それを支えるような食事を振る舞っていくというのは、愛情表現以外に言葉が見つかりません。

Good night.

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